会長挨拶

「愛情」のリレーを途切れさせることなく、「介護」や「支援」を必要としている方々の生活を豊かなものにしたい。そしてこれを実現できる地域社会を創りたい。私はこんな想いで、平成11年6月に株式会社さわやからいふを設立しました。そして、20年目となる平成30年6月、初心を忘れず、かつ改革を怠らないためにも、私は最高経営責任者という立場に就くことになりました。弊社の発展が、一企業の発展に止まらず、地域の豊かさ、日本の明るさに繋がりますよう、職員とともに汗をかいてまいる所存です。引き続きご支援、ご指導のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

株式会社 さわやからいふ
最高経営責任者 白川秀二
 
   
白川秀二プロフィール表示
   
   
   昭和35(1960)年、福岡県に生まれる。実家は祖父の時代から続く製材業者であり、そこに残る家系図によれば、白川家の先祖をさかのぼると平家の流れをくむ武将に行き着く。祖父が創業したマルト製材所も、祖先が江戸時代に福岡県内の優良な山林の管理を任されたことに由来すると考えられる。
 日本の高度成長の恩恵もあり、マルト製材所の業績は順調、幼少期は裕福な家のお坊ちゃんとして育つ。お金の苦労もなく横浜の大学に進学することができたが、父に代替わりをしたマルト製材所は、円高による輸入材に押される形で業績を悪化させた。
 大学卒業後、商社に就職するも、マルト製材所は倒産してしまいその負債の一部を背負うことになる。このときの辛かった経験は、いまだに夢に出てくるほどであるとともに、借金返済の必要もあり仕事には一段と身が入り、営業成績は良好を維持した。
 転機が訪れたのは入社15年目。父も祖父も60代後半で他界していることもあり、「人生そんなに長くない」という気持ちが強まるなかで、経営者の血を引く者として、商社退職と起業独立に踏み切る。しかも非常に珍しい、二社同時起業に挑戦した。
 平成11年、介護事業のさわやからいふ社と、工作機械卸のウイズ社を設立。介護事業については、大学時代から温めていたプラン。工作機械卸については、商社時代に培った人間関係やノウハウを生かすもの。この難しい二社同時起業が、後に危機を救うことになる。
 例えば、介護事業がようやく軌道に乗ったかに見えた頃、腹心がお金と顧客を持っていなくなるという事件が発生。さわやからいふ社単独ではこの苦境を乗り越えられなかった可能性があったが、ウイズ社の業績は順調で、この存在があったことからさわやからいふ社の資金繰りが保たれた。
 「苦しくても二社同時起業せよ」、「どんなことがあっても諦めるな」、こうした貴重な助言をくださったのは、商社時代から創業期にかけてお世話になった方々。こうした皆さまとは今でも良好な人間関係を続け、ご指導をいただいていることに心より感謝している。
 さわやからいふ社は、その後も危機はあったもののそれを乗り越えながら、介護事業者の先駆け的な存在として業容を拡大。平成30年、創業20年目を機に、社長の役割を出口明美に託し、自らは最高経営責任者として、地域の豊かさや日本の明るさに繋がる活動をすべく、職員とともに汗を流す日々。
 ビートルズ・チューリップ・コールドプレイをこよなく愛し、最近では山歩きが趣味に加わる。大きな家族のような近未来の街、さわやかヴィレッジを創るのが夢。   
 
 
 
社長挨拶

入社以来『私が、あなただったら…』と相手の立場に立って介護をすることをモットーに介 護をしてまいりました。 その思いに共感してくれる仲間が徐々に増え、今の「さわやからいふ」を支えています。 超高齢化が進み、介護の内容も時間も制約が厳しくなる中ともすれば機械的な介護になり がちです。 介護を必要とする人の増大、介護を担う人の減少という厳しい現実に屈せず、『私が 、あな ただったら…』の心のある介護で スタッフ一同、地域に貢献できるよう日々努力をしてまいります。

株式会社 さわやからいふ
代表取締役社長 出口明美
 
   
出口明美プロフィール表示
   
   
 愛知県に生まれる。実家は父親が経営する鉄工所。実直な経営をする父親の背中を見て育つ。
 幼少期は極度の引っ込み思案。学芸会で舞台に立つと気絶しそうになっていたほど。中学2年時に腎臓病で1年間の入院生活を送る。少しばかりIQが高かったため教師からは期待されていたが、その後も制限ある生活が続く。
 高校卒業後、大手都市銀行に就職。企業から食事会などに誘われたことで、企業の動きや経営者の目線などに触れる機会を得る。
 銀行退職後は、主婦業に専念するが、パンの移動販売やNHKの法人受信料徴収業務も経験。いずれにおいても、周囲を助け、周囲から助けられることで、営業成績は良好。
 あるとき、知人により、ヘルパースクールに勝手に申し込まれてしまうという事件が発生。そのままそこに就職せねばならないというので、それを回避するため、さわやからいふのヘルパースクールを応募。すると当時の社長である白川から声がかかり、経理事務職に空きが出来たので入ってくれないか、とのこと。
 断り切れずにパートでさわやからいふの仕事に関わるようになり、やがて自らもヘルパーとして介護実務に携わるようになり、徐々に介護事業に本腰が入る。この会社をもっと良い会社にしたい、ヘルパーの地位をもっと向上させたい、そんな気持ちが強まる中、やがて正社員、その後管理職を経験し、平成30年6月に社長就任。
 介護の仕事はこんなにも素晴らしい!このことを多くの人たちに知っていただくために奮闘中。